図工の時間が嫌いだった話。

絵を描くのが嫌になってしまったわたしへ。

いつか描きたいと思うときまで、休んでもいいんだよ。



このところ、わたしは絵を描く練習をしている。
ずっと字書き専門だったわたしが、絵を描いている。

絵の練習をはじめて、きょうで5日目。
どうせ三日坊主だろうと思ってたから、自分でもびっくりしている。


なんで絵を描かないできたのか。

文字での表現がすきだったから、という理由もある。
あるんだけど、ほんとはちょっと違う。

どちらかというと、「わたしは絵を描いちゃいけない」と思っていたのだ。


小学生のころ、図画工作の授業で、あじさいの絵を描く課題があった。

手前にあじさいを配置して、奥にはなにを描いてもよいということになっていた、はず。
クラスのみんなは、風景とか、人物とか、思い思いのものを描き込んでいた。

当時のわたしは、ファンタジーみたいな、それこそ絵本みたいな絵が描きたかった。
なので、手前に描いたあじさいのすぐそばに、小さな女の子を描き込んだ。

このときは、下書き、線画の時点で先生に提出して、OKがもらえた子から色塗りをはじめる、という手順だった。
なのでわたしは、早く色塗りをしたいな、なんて思って、さっさと線画を描き上げて先生に見せにいった。

わたしが提出した絵は、手前にはあじさいと女の子、その向こうでこどもたちが遊んでいる、というものだった。

「絵本みたいな絵を描くんじゃない」と、ひどく怒られた。

高学年にもなってみっともない。
地面を描くなんてこどもっぽい。

わたしは泣きそうなのをこらえて、「描きなおします」と応じた。

下書きで描いた女の子の笑顔は、いまでも覚えている。とても可愛く描けていた。
なのに、これではだめなのだ。
自分の手で、気に入っている絵に消しゴムをかけなければならないのは、悔しくて哀しくて、絵のなかの女の子に申し訳なかった。

丘で遊ぶこどもたちの絵に描きかえて、あの女の子はあとかたも残さずに、もう一度提出した。
でも、先生はもっと怒った。

光の方向が間違っている。
夕焼けにあじさいなんておかしい。

雨上がりのつもりで描いた下書きは、秋の夕暮れだと解釈されたらしい。

先生はわたしの絵に消しゴムをかけた。

わたしは、自分の絵が消されていくのを泣きながら見ていた。抗議もしたけれど、聞き入れられなかった。
そして、先生はわたしの絵を描きかえた。
泣いているわたしに怒号を浴びせながら、傘を持たせて立たせて、傘を広げて笑っているわたしとおぼしき誰かを絵のなかに描き込んだ。わたしはそのあいだ、ぼろぼろと泣いていた。
クラスのみんなが、なにごとかとわたしたちを見ていた。

あれはもう、わたしの絵じゃなかった。



それ以来、わたしは図工の時間が嫌いになった。
絵が嫌いになった。

わたしが描きたいものは、描いてはいけないもの。
そうでも思わないと、やってられなかった。


あれからずいぶんと経った。

どうしても絵で描きたい物語があって、いま少しずつ練習をしている。
自分の好きな絵柄、自分の好きな構図、自分の好きなモチーフを描いていくうちに、ようやく「描きたいものを描いていいんだ」と思えるようになってきた。

自分が描きたい理想そのものを描き出すには、まだいろいろと足りないけれど。
あじさいの絵に、地面を描いたっていいし、絵本みたいな雰囲気になったってかまわない。

わたしは、かきたいものを、かきたいように、かいていい。
文字でも、絵画でも、それ以外でも同じことだった。

いつになるかわからないけど、いつかあじさいの絵を描けたらいいな。
あの女の子に、もう一度会えたら。
そのときは、今度こそ、最後まで、わたしの手で描ききりたい。

星が降るラボラトリ

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